早死にした天才漫画家10選【早世の理由】

世の中には、様々なジャンルの面白い漫画や感動する人気漫画がたくさんあります。

しかし、そんな人気漫画を執筆している漫画家には早死にが多いです。

漫画家に早死にが多い理由は、常に納期に迫られている生活をしているから、

「ひたすら机と向き合って外出をしない」

「食事が偏りやすい」

「納期に追われて、精神的に疲弊」

等過酷な環境かつハードワークなためです。

厚生労働省が2018年に発表した「簡易生命表」によると、現在の日本人男性の平均寿命は81.25歳、女性の平均寿命は87.32歳だということです。

男女ともに過去最高齢を記録しており、今後も平均寿命が延びるのではないか?という指摘もあります。

手塚治虫

手塚治虫は、1928年11月3日に大阪府豊能郡で誕生し、1989年2月9日に60歳という若さでこの世を去りました。

手塚治虫の代表漫画は、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『ブラック・ジャック』などです。

手塚治虫は、老若男女問わず誰もが知っている天才漫画家であることは間違いないでしょう。

しかし手塚治虫の幼少期は、クラスメイトにイジメを受けていた、いわゆる「いじめられっ子」だったのです。

そのいじめを克服する要因を作ってくれたのが、漫画の力だとされています。

手塚治虫は小学校2年生のときにイジメを受け始めることとなるのですが、小学校5年生の時に完成させた漫画『支那の夜』により、クラスメイトの目が変わったというのです。

支那の夜』の出来は教師の間でも話題となり、以後、授業中に漫画を描くことを黙認されたというエピソードもあるほどです。

小学校時代より漫画の腕が確かだと証明されていた手塚治虫ですが、はじめて雑誌に連載作品が載ったのは1950年4月・22歳の時のことです。

手塚治虫の記念すべき初連載作品は、雑誌『少年少女漫画と読み物(新生閣)』に連載された『タイガー博士の珍旅行』です。

1951年には雑誌『漫画少年(学童社)』で『鉄腕アトム』の前身でもある『アトム大使』の連載が始まりました。

鉄腕アトム』は、漫画はもちろんテレビアニメとしても有名になったもので、未だに多くの「鉄腕アトムファン」がいることでも知られています。

鉄腕アトム』はまさしく、手塚治虫の最大のヒット作品であると言えるでしょう。

手塚治虫は1988年3月に胃を壊し、手術を受けることになったのです。

2か月後には退院して元気な姿を見せていたのですが、同年11月に再び倒れ、そこでスキルス胃がんであることが判明しました。

手塚治虫は、その翌年の1989年2月9日に60歳という若さで他界しています。

藤子・F・不二雄

藤子・F・不二雄は、1933年12月1日に富山県高岡市で誕生し、1996年9月23日に62歳の若さでこの世を去りました。

藤子・F・不二雄の代表漫画は、『オバケのQ太郎』『ドラえもん』『キテレツ大百科』です。

藤子・F・不二雄は、大人しくて気弱な少年だったことから、小学校時代にイジメに遭っています。

このイジメが終息したのは、他でもない漫画のおかげです。

1944年に出会った安孫子素雄と共に漫画家として活動していくことを決め、17歳のときに『天使の玉ちゃん』で漫画家デビューを果たしました。

同コンビの名作品は、『オバケのQ太郎』『ドラえもん』など、今もなお国民に愛されている作品です。

1988年には安孫子素雄とのコンビを解消させましたが、藤子・F・不二雄は『ドラえもん』を中心とした子供向けの漫画の執筆を続けたのです。

藤子・F・不二雄が描く子供向けの漫画は、「子供たちの夢と願望を心にくいばかりに視覚化している」と大きな評価を得ることとなりました。

ドラえもん』は昭和時代の子供のみならず、平成、さらには令和の時代の子供にまで親しまれていく漫画・アニメになることでしょう。

藤子・F・不二雄は1996年9月20日、自宅で『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』を執筆中に倒れているのが発見されました。

それから3日後の9月23日、肝不全のため62歳の若さで他界しています。

赤塚不二夫

赤塚不二夫は、1935年9月24日に中国河北省で誕生し、2008年8月2日に72歳の若さでこの世を去りました。

赤塚不二夫の代表漫画は、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』などです。

赤塚不二夫は、1956年に漫画『嵐をこえて』で漫画家デビューを果たしました。

1962年に発表した『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』、1967年に発表した『天才バカボン』が大きくヒットし、「ギャグ漫画の王様」という称号を手にしたのです。

天才バカボン』は、昭和世代のみならず平成世代にまで浸透していた名作中の名作で、2016年~2018年にかけて実写化もされて反響を呼びました。

バカボンのパパの口癖でもある「こにゃにゃちは」、「これでいいのだ!」というフレーズも巷で流行り、小学生男子が真似をするなど、影響は多岐に渡っています。

これらの作品の大ヒットの功績が認められ、1974年には『週刊少年ジャンプ(集英社)』におけるギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立されました。

1975年には、「元祖天才バカボン(日本テレビ)」がアニメとして放送されることが決定し、日本中が「天才バカボンファン」になったといっても過言ではないでしょう。

1977年には、「笑っていいとも!(フジテレビ)」や「ミュージックステーション(テレビ朝日)」の司会で知られる森田一義(タモリ)と出会い、テレビ業界に進出していきました。

赤塚不二夫は、テレビ業界の進出によりイベントの企画や出演に重きを置くようになり、漫画の執筆活動が徐々に端に追いやられていくこととなってしまうのです。

結果として『週刊少年サンデー(小学館)』などで行ってきた連載が、すべて終了してしまうことになったのです。

1982年頃の赤塚不二夫は、漫画家としての仕事はほとんどなく、アルコール依存症と診断を受け、1997年12月には食道がんと診断されました。

2000年8月には、急性硬膜下血腫と診断され、麻痺もあったことから手術が行われました。

そのような体調の中でも、『赤塚不二夫のさわる絵本 よーいどん!』という点字の漫画絵本を2000年に発表し、同作品は全国の盲学校に教材として寄贈されたのです。

2002年には『赤塚不二夫のさわる絵本 ニャロメをさがせ!』という点字の漫画絵本第2弾が発表され、視覚障害児を持つ家庭を中心に、人気を集めました。

2008年8月2日、赤塚不二夫は肺炎のため他界したと報じられましたが、実は2004年から意識不明のまま植物状態であったことが明かされています。

石ノ森章太郎

石ノ森章太郎は、1938年1月25日に宮城県登米郡に誕生し、1998年1月28日に60歳の若さでこの世を去っています。

石ノ森章太郎の代表漫画は、『仮面ライダー』『さるとびエッちゃん』『マンガ日本経済入門』です。

石ノ森章太郎は、ギャグ漫画はもちろん、『マンガ日本経済入門』に代表されるように、学習漫画を世に広めた第一人者として知られています。

さらに『仮面ライダー』シリーズをはじめとする、特撮作品の原作者としても有名です。

石ノ森章太郎は高校2年生の春、手塚治虫の『鉄腕アトム』のアシスタントを務めていました。

手塚治虫の仲介もあり、1954年(16歳の頃)に『漫画少年』で漫画家デビューを果たしました。

石ノ森章太郎のすごいところは、創作速度の速さです。

ドラえもん』の作者として知られている藤子・F・不二雄が1日5~6枚仕上げた原稿を、石ノ森章太郎は1日で15~20枚も仕上げてしまったというのです。

1971年には、特撮映画「仮面ライダー」の原作とその漫画版『仮面ライダー』を石ノ森章太郎が担当しました。

これがきっかけとなり、石ノ森章太郎は以後も「仮面ライダーシリーズ」のみならず、特撮・変身ヒーローシリーズの原作を手掛けていくことになるのです。

1981年には、日本漫画家協会の理事を務めることになりました。

しかし1998年1月28日、リンパ腫による心不全のため60歳という若さでこの世を去りました。

没後の2007年末、『石ノ森章太郎萬画大全集(角川書店)』という500巻770作品の個人全集が発表されました。

同作品は、1人の著者による最も多い漫画の出版記録だとして、ギネス・ワールド・レコーズにも認定されるものとなりました。

さくらももこ


さくらももこは、1965年5月8日に静岡県清水市に誕生し、2018年8月15日に53歳の若さでこの世を去りました。

さくらももこの代表漫画は、『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』です。

1984年、『りぼんオリジナル冬の号(集英社)』に『ちびまる子ちゃん』を掲載したことで、漫画家デビューを果たしました。

さくらももこは一度は一般企業に就職をするのですが、就業中の居眠りが続き、「仕事か漫画かどっちかを取れ」と上司に言われ、漫画家になる決心を固めました。

1986年8月より、『りぼん(講談社)』にて『ちびまる子ちゃん』の連載が開始され、1989年には、同作品で第13回講談社漫画少女部門を受賞しています。

ちびまる子ちゃん」は1990年~1992年、1995年~2020年現在にかけてフジテレビ系で毎週日曜日に放送されており、「日曜の顔」としても知られる存在となりました。

1997年~1999年にかけては、「コジコジ(TBS)」もアニメ化され、「さくらももこワールド」と称されました。

しかし、さくらももこは2007年頃から乳がんを患っていたとされており、それが原因で2018年に53歳という若さで他界しています。

かがみあきら


かがみあきらは、1957年10月22日に愛知県名古屋市に誕生し、1984年8月8日に26歳という若さでこの世を去りました。

かがみあきらの代表漫画は、『クラリスメモリー』『ワンダートレック』です。

かがみあきらは1982年、『クラリスメモリー』の発表と共に漫画家デビューを果たしました。

1984年には『ワインカラー物語(白夜書房)』という単行本を発行するのですが、これが生前最後の単行本になってしまったのです。

1984年8月5日には友人に体調不良を訴えていましたが、死亡が確認されたのはその4日後の8月9日でした。

死因に関しては、過労死説や凍死説があります。

かがみあきらは、来る仕事を一切断らなかったというのです。

これによる過労死説が有力視されていますが、シャワーを浴びたあとよく体を拭きもせずに漫画の執筆を続けていたことによる凍死説も有力視されています。

土田世紀


土田世紀は、1969年3月21日に秋田県平鹿郡に誕生し、2012年4月24日に43歳の若さでこの世を去っています。

土田世紀の代表漫画は、『同じ月を見ている』『編集王』です。

元々絵を描くのが得意だった少年時代の土田世紀は、近所に住む人から絵の基礎を教えてもらっただけにも関わらず、「科学技術庁長官賞」を受賞した経緯があります。

高校時代なると漫画を描くようになり、自身の描く漫画の登場人物(主に不良)を実際に演じて警察沙汰になることも度々あり、ヤンチャだった少年時代も話題になりました。

1998年に発表された『同じ月を見ている』は、「平成11年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞」を受賞し、当時話題となりました。

その話題性から同作品は、2005年に窪塚洋介主演で映画化もされました。

1991年~1993年まで『ビッグコミックスピリッツ(小学館)』で連載された『俺節』は、2017年5月~6月に舞台化されるほどの反響を得ました。

さらに1994年~1997年まで『ビッグコミックスピリッツ(小学館)』で連載された『編集王』は2000年にフジテレビでドラマ化されました。

主演をネプチューン・原田泰造が務めたことでも話題になり、原田泰造は同作の演技が高く評価され、後に俳優業の仕事が増えるきっかけともなった作品です。

さらに『ビッグコミックスペリオール(小学館)』で連載された『ギラギラ』は、2008年にテレビ朝日でドラマ化され、佐々木蔵之介が主演を務めました。

漫画の人気のみならず、ドラマ化や舞台化までされている話題作を世に多数輩出した土田世紀ですが、2012年4月24日に自宅で死亡しているのが確認されています。

死因は、肝硬変です。

実は20代のころよりアルコール依存症気味の生活を送っており、それが祟ったのではないか?と噂されています。

寺田ヒロオ

寺田ヒロオは、1931年8月4日に新潟県西蒲原郡に誕生し、1992年9月24日に61歳の若さでこの世を去りました。

寺田ヒロオの代表漫画は、『スポーツマン金太郎』『暗闇五段』などです。

寺田ヒロオは、1950年代後半~1960年代前半にかけて、最もブレイクした漫画家といっても過言ではないくらいの活躍を見せていました。

しかしそれが仇となり、「漫画家を辞めたい」と口にする日が多くなったのだとか。

1956年~1964年まで連載を続けた『背番号0』、1959年~1970年まで連載を続けた『スポーツマン金太郎』など、長期間に渡る連載を多数抱えていました。

それに加えて、1963年~1964年の『暗闇五段』、1964年~1965年の『ロボット兄弟』、1966年~1967年の『チビッ子選手金太郎』などの連載活動も行っていました。

同時期に多数の人気作品の執筆を続けており、精神的にも体力的にも限界だったのでしょう。

そんな時期に、さらに追い打ちをかけることが起こってしまうのです。

寺田ヒロオの描く漫画と、世間が求めている漫画が一致しなくなり、編集部から漫画の質を変えるよう打診を受けてしまったのです。

これにより、1973年には寺田ヒロオは絶筆してしまったのです。

晩年は、漫画家仲間はもちろん家族とも距離を置く生活をし、1992年9月24日に61歳の若さで他界しました。

花郁悠紀子


花郁悠紀子は、1954年9月21日に誕生し、1980年12月12日に26歳の若さでこの世を去っています。

花郁悠紀子の代表漫画は、『アナスタシアのすてきなおとなり』などです。

ファンタジーとコメディーが融合された同作品はたちまち話題となり、花郁悠紀子は有名になったのです。

特に、「花郁悠紀子の描く死体が美しすぎる」と評判にもなりました。

しかし胃がんによって、26歳の若さで他界してしまいました。

花郁悠紀子は、5年間の漫画家生活で短編を中心に30数本の漫画を世に排出しました。

没後刊行されたものを合わせると、コミックス8冊です。

上村一夫


上村一夫は、1940年3月7日に神奈川県横須賀市で誕生し、1986年1月11日に45歳の若さでこの世を去っています。

上村一夫の代表漫画は、『修羅雪姫』『同棲時代』『サチコの幸』などです。

1972年~1973年に連載された『修羅雪姫』は、1973年に梶芽衣子主演で映画化されており、時を経て2001年にも釈由美子主演で映画化されました。

1972年~1973年に連載された『同棲時代』は、1973年にTBSでドラマ化され、松竹より映画化もされている作品です。

上村一夫は、漫画だけではなく映像化される作品を手掛けていたわけですが、1985年11月に下咽頭腫瘍で入院し、翌年1月11日に45歳という若さで他界しています。

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